
歯医者になったいきさつですが、よく聞かれます。私は実家が専業農家だったので、家業を継いだのではありません。母親は私に跡(農業)を継いで欲しかったみたいです。高校のときは医療系に進みたいという希望はありましたが漠然としていました。
16歳の時父親が突然逝ってしまった後、当然現実に引き戻されました。一番の働き手の父がいない。妹はまだ小学生。すると生活の問題が出てきました。母親一人では農業はできません。そのため大学進学を断念。高校卒業後農業を継ぐことになりました。春から田んぼの水張り、田植え、田んぼの草取り、みかんの消毒、イチゴの苗を植える。稲刈り、みかんの収穫。イチゴハウスのビニールかけ。イチゴの収穫と1年間無我夢中で農作業をしました。収穫の喜びは確かにありました。が、私の本意は農業ではなかったのです。
このままでは自分にうそをついて一生を終えることになる。何のための人生か?19歳の岐路でした。母親と本音で話し合い、1年間の猶予をもらって予備校生になりました。狙いは実家から近い、学費のかからないところ。自然と志望は長崎大学です。1年しか猶予が無かったので後がなく、結果として安全圏の歯学部を受験し、合格しました。思いがけなくも入学式では新入生を代表して挨拶をさせていただきましたが、それもいい思い出です。
こういう理由から歯学部に入学しましたが、歯科医業は、細かい仕事で忍耐強く、そして患者様と楽しくコミュニケーションをとりながらする仕事でしたので、結果として歯科医業は私にとって天職と思えるものでした。今は患者様の健康を守るための歯科医療を行っている。『歯は健康の窓口』をキャチフレーズに楽しく、やりがいを持って診療させていただいてます。
私は南島原の西有家の出身です。国道から少し登った小高い場所に実家があります。実家からは湯島(談合島)といって天草と島原の間の有明海に浮かぶ島が見えます。湯島は天草四郎の乱(1637年)の時、キリシタン信者の代表が集まり作戦を話し合った島としてしられていて、そのため別名「談合島」と呼ばれているのだそうです。その島を見ながら約2キロメートル位の道のりを歩いて小学校へ通っていたのです。
当時は車の通らない人だけが通れるような小道を通って通学しておりました。途中は桑畑がたくさんあって、ある時期(初夏?だったかなあ?)になると黒い色の実をつけるのです。それがおいしいことおいしいこと。桑は葉っぱが大事(蚕のエサになる)で実など大切ではありませんから食べても誰も文句は言いません。小学校の帰り道、口のまわりを紫色に染めながら食べたことを思い出します。今では蚕も、桑の葉も知らない子供が増えているのが少し残念ですね。
20年位前に大規模な造成がなされて、景色もすっかり変わってしまったのですが、今でも桑の実の記憶があります。(当時から食いしんぼーだったんですね)

私の実家は専業農家でした。農作業は忙しく、両親、祖父、祖母ともに総出で朝から日が暮れるまで仕事に追われてました。そのため現在の子供たちのように丁寧な子育てなどありません。放って育てられました。そのため虫歯もかなりできたと記憶してます。
保育園児のころだと思います。歯の突然の痛みに我慢できなくなって、祖母に見てもらったところ大きな穴が開いていたそうです。あまりの痛さにしょうがない。治療しようということで、祖母に隣町の歯医者までつれて行ってもらったのです。
結果は、泣き騒いで暴れたため治療ができませんでした。祖母と一緒にとぼとぼ帰った記憶があります。そういう子供がいま、歯医者になって子供たちを治療してます。子供の気持ちがわかる歯医者のつもりです。
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